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生きる意味と喜び

  • Writer: Mimi
    Mimi
  • Jan 10, 2022
  • 4 min read


最近の私は、人生がなんだか楽しい。


と言っても、先月までは毎日死ぬことばかり考えていた。二度目の産後、毎日ギリギリまで働いても睡眠時間はわずかしかとれず、プライベートはほぼ皆無。数ヶ月ぶりの美容院に行くことすら罪悪感を持ちながら人に子供を見てもらわなければならない。

もう、何も楽しくない。

何も美味しくない。

私ってかわいそう。

精神状態はもう限界だった。

死んだ方が楽とはこのことか。どうやって死のう。私が死んだら家族は苦労するだろうな。

人は死んだらその後どうなる?魂はどこへいく?そもそも魂なんてものは本当にあるのか。


ここまで病んでみて、私は改めて思った。


 ー 生きてるって、なんだ?



気づいたことは二つ。

一つは、後悔について。

ここに書ききると引かれるレベルの細かく想像した私の "死ぬ瞬間" には、自分がされたこと、してもらえなかったこと、持てなかったものよりも、自分が誰かにできなかったこと、伝えられなかったこと、中途半端に終わらせたこと、与えられたのに与えなかったものの方が後悔が大きかったということ。そして、通常モードで生きている間にはいつも心のどこかにあった "自分が人にしてあげたこと" なんて、死ぬ時には影すらなかった。


『うん、本当に死ぬならば、生きている間になるべく後悔を少なくしていたほうがいいな。』じわじわと、そう思うようになった。


もう一つは、死んだ後に振り返るであろう "生きていた自分" について。本当の意味で、私はどれだけ"生きていた" だろうか。

楽しかった瞬間は、確かにたくさんあったはずだ。しょうもないが、最近で言うと新しいスニーカーを買った時。初めてスニーカーに一万円も出して、欲しかったナイキを買った。一ヶ月経った今も、外を歩くたびに嬉しくなる。

でもいざ死ぬ時に、私はスニーカーを買った喜びを思い出す?持っていたものにそこまで感謝するだろうか。魂レベルで肉体を離れていく自分が、お金や物に改めて喜んでいることはいまいち想像できない。

では、生きている上で本当の喜びとはなんだろう。

長く考えて、たどり着いた結論はこれだ。


『生きている中で得られる本当の喜びとは、成長すること』


仮に魂論が正しいとして、死んでしまえば、物質世界の中でしかできない成長が止まる。"私" としての動きがそこで止まり、ただひたすら振り返ることしか出来なくなる。

動きのない世界は、今と比べてとてもつまらないと感じた。その中で、さらに後悔が多ければ、恐らく死後の私はたまったものじゃない。


今の夫と出会い、色んなことを乗り越えて、それぞれが人としてだいぶ成長した。まだもっと若い頃に経験したこと、自分の決断、犯したたくさんの間違い、それら一つ一つをくぐることで学んだ過程の時間と結果そのものが、今思えば自分の成長であり、喜びだ。


しかしここでもまた、後悔がでてくる。

若かったあの時にやろうとしたことを続けていれば、今の私はもっと貢献できた。失敗する自分が周りにどう見えるかを気にして、頑張ってもどうせ面白味もなく無駄な努力になるのだろうと決めつけて、前に進まなかった。

もっと人に与えるには、自分に力がないといけない。でも今の自分では力が足りない。

私はできることを探すため、これまで中途半端にやらなかった数あるものの中から感情と見かけを抜きにして、自分に与えられた本来得意なものに絞り込んだ。得意なものを素直に伸ばして貢献することが一番自然だと思ったからだ。すると何十もあった候補が、最後には一つになった。

私は一年後、二年後、毎日それをやっている光景を明確に想像して自分の呼吸を確かめた。

すーっと、呼吸が楽になる。

『よし、与えられたギフトはこれか。カッコいいと思うこととは違うがしょうがないな。素直になって、ちゃんとやってみよう。』

私はそれから毎日、アリが移動するくらいの速度で、勉強をしている。料理をしながらキッチンの隅で、子供を寝かしつけながらベッドの上で、ドライヤーをしながら洗面所で。これでも確実に前進しているし、案外と楽しい。選んだものが自分に合っていたのだと思う。


生きることは、成長すること。

この命はいつか終わってしまうから、できることを、できるうちにすること。


時に課題は辛く難しい。でも見方を変えればそれ自体が喜びになる。そして一生懸命成長している自分の姿は、実際は全然恥ずかしくないのだ。


しばらく暗い時間を過ごした後、私は今、毎日がとても楽しい。

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